共働き世帯にとって保育園や学童の運営など、子育て支援を担う自治体は頼りになる存在であってほしいもの。このたび日経DUALでは、読者に代わって、自治体の首長への突撃インタビューを開始しました。最初は東京23区に取材を依頼し、区長に質問をぶつけます。

中野区の職員を経て50歳で区政を預かる身となった田中大輔区長は、区役所勤務時代、共働きで子どもを預けて働くデュアラーでした。保育園や学童保育の保護者会では会長を担った経験も。「職員時代から、官尊民卑は違うと思っていた」と語る田中区長が打ち出す子育て政策とは?

田中 大輔 区長

1951年、北海道小樽市生まれ。77年に中央大学文学部を卒業し、中野区役所就職。交通対策課長、健康課長、介護保険準備課長、行政改革課長などを歴任。2001年12月退職、翌6月、中野区長就任。2006年3月、中央大学大学院経済学研究科修了(修士論文「基礎自治体の経営革新」)。2006年、2010年、2014年の6月と、区長に3回再任される。

50歳で区長に就任し、保育園の定員枠を1000人以上増やした

田中大輔・中野区長
田中大輔・中野区長

DUAL編集部 現在4期目に入っていますが、もともとは中野区の職員でいらしたのですよね。

田中区長(以下、敬称略) はい。北海道の小樽で生まれ、その後札幌に引っ越し、大学進学とともに上京。大学を卒業後、中野区役所に就職しました。それから36年、中野区の仕事をしています。

 当時は就職難だったこともあって、公務員を選びました。23区の職員は一括で募集・採用され、希望する区に面接に行って、受かれば採用となります。私は高円寺や中野に住んだこともあり「中央線文化」が好きで、中野区が第一希望でした。やはり区で働くというのは、自分のやったことで区が変わる、地域が変わる。地域社会からすぐに結果が返ってきますし、地域の未来をつくる部分に大きなやりがいを感じています。

―― 区長選挙に立候補したきっかけを教えてください。

田中 2001年、50歳で退職して出馬しました。直前の肩書きは行政改革課長だったんです。中野区の当時の財政は、バブルの「箱もの行政」や「バラマキ福祉」などが原因となり、バブル崩壊後に一気に悪化していました。区政全体のシステムを変革し、スリム化することが、行政改革課長の仕事だったのです。行政改革課長時代に、ある程度の道筋を付けることはできたのですが、まだそのままでは「区民の政治」を実現できないと感じ、薦めてくれる方もいたので、立候補に至りました。

―― 当選後は、ご自身が職員時代に計画した改革を進めていったのですね。

田中 はい、その結果、区政は大きく変わりました。子育て世帯に関係あるところでは、私の就任後、区の保育の定員数を1000人以上増やしました。当時、2002年ごろは子どもの数が減り、利用者が減少傾向にあったため保育園・保育所の定数を減らす傾向にあったのですが、中身を見ると、実は0歳児の枠は足りないなど、いびつな構造になっていたのです。また、保育所の民営化を行政改革課長時代から行ってきました。