理想の保育園に入れるために家を売って引っ越し

―― 今みたいにワーキングマザーのための制度や施設も整っていないなか、日中の育児はどうなさっていたのですか。

小林 赤ちゃんのころは、個人のベビーシッターさんにお願いしていました。2~3歳になると保育園に入れました。片っ端から区役所に電話して条件の合う園を探していたとき、「働く女性に非常に理解のある園が世田谷区にある」という話を同僚から聞きました。そこで、娘を入園させるため、郊外に持っていた家を売って下北沢に引っ越しました。

 出産以来、「仕事を辞めろコール」を出し続けていた夫は、「引っ越しをしてまで働こうなんて、どうかしている」とあきれ返っていましたね。夫が働く理由は、「食べるため。給料のため」であって、そうではない価値観を分かってくれなかったんですよ。男性が育児に参加するという意識もほとんど無い時代でした。とにかく大変ではありましたが、どんな大変な子育ても、いつかは山を越すんですよ。

中学に入れば娘も「自由」の良さに気づく

―― 渦中にいると「早く穏やかな生活をしたい。いっそのこと、もう、辞めちゃおうか…」と思うことも多々あります。小林さんは山を越したなと実感できたのはいつごろでしょうか?

小林 一人娘のひろ美が10歳になるくらいかな。一番最初に、「あ、そうか。子どもは親から離れていくんだ」と気づいたの。親以外の人や事柄に興味を持つようになった。それがだんだん強まっていき、中学校へ入ったらなおさらです。

 小学校の低学年のうちは娘も、お母さんが家にいる友達が羨ましくって仕方がないわけ。「○○ちゃんのおうちではね、学校から帰ったら、お母さんが『おかえり』って言ってくれるんだって」「手作りのおやつだって出してくれるんだよ」という具合にね。

 でも中学生になると、友達は自分の母親をうるさがって、「ひろ美ちゃんのママはおうちにいなくていいわね」と言われるようになる。私は時間やら宿題やらうるさく言ったことはない。まあ、野放しです(笑)。それを「私は自由なんだ」と娘は気づいたみたい。だから「ママ、お仕事を辞めて」と頼んできたのは、小学校まで。その後は、むしろ「自由だからいいや」と思っていたようです。

 よく学校の先生などに、「ひろ美ちゃんが素直に育って、本当によかったですね。感謝しなくちゃいけない」と言われたものです。私に対するお説教ですね(笑)。ひろ美にその話をしたら、「不良になろうと思ったらいつでもなれると思っていたよ。だから今じゃなくてもいいやって思ってた」ですって(笑)。

毎日娘には手紙を書いていた

―― 子どもに対してあまり時間を割けないことに、罪悪感を持つことはありませんでしたか?

小林 子どもと過ごす時間は「量より質」と考えていました。十分な時間をかけられないからといって、卑屈になる必要はありません。

 とは言っても、罪悪感のようなものは少なからずあるから、必ず手紙を書いていました。ひろ美が園や学校から帰ってきたら読めるように机の上に置いておくのです。「おかえりー。おやつはここにあるよ」とかそういった類いのものです。イラストを入れたり工夫して毎日書いているから、それを見て娘も安心するんでしょうね。「私のことを気に掛けてくれている」って。

 手紙を見ておやつかなんかちょっと食べて、遊びに行く。みんな塾だ塾だと言っているときに、彼女は自由に遊んでいました。友達が通う塾というものに一度行ってみたいと言うので、「塾に行ってらっしゃい。ママは○時に帰ります」という手紙とお金を置いておいたことがありました。でも帰宅したら、家にひろ美がいる。「塾は?」と尋ねたら、「あのね、塾って勉強する所だったの」ですって(笑)。

 ともかく手紙は、娘が小学校を卒業するまで、ずっと続けていました。娘も楽しみにしてくれていましたよ。