130万部のベストセラー『「捨てる!」技術』著者の辰巳渚さん(高1男子、小4女子のママ)、授乳服の製作など、お産・おっぱいをサポートするモーハウス代表の光畑由佳さん(大学生から中学生までの3児のママ)。働く母親として多くの共通項を持っているお二人に、ご自身のキャリア・出産・育児や、仕事と育児の両立について、本音で語ってもらいました。第1回のテーマは「20代のとき、どんなキャリア観を持っていた?」「出産・育児 つらかった! 楽しかった!」です。

80年代最先端企業のパルコ。ママ社員はほとんどおらず……

DUAL編集部 お二人は1歳違いと年が近く、お茶の水女子大学出身という共通項もお持ちです。さらに、パルコに新卒入社というご経歴まで一緒なんですね。

辰巳さん(以下、辰巳) 私はパルコの出版部で、自分で企画を立てて取材して書くという仕事をしていました。私達は1986年に施行された男女雇用機会均等法の第1世代。80年代のパルコはまさに若者文化の中心だったし、パルコに就職するような人は女性でも「バリバリ働く気がある人でしょ」という感じでしたね。

モーハウス代表、光畑由佳さん
モーハウス代表、光畑由佳さん

光畑さん(以下、光畑) 私がいたのは、後にプロモーション部と呼ばれる美術企画の部署で、出版との絡みも多かったですね。出版は男性のほうが多かったけど、美術企画局は7~8割が女性でした。

―― そのころ、職場の女性達にとって「結婚・出産」と「仕事」との両立イメージはどんな感じだったのですか?

光畑 女性が男性と同等に働ける先進的な職場と言われていたパルコで、私はさらに女性の多い部署にいました。それでも、子育てしながら働いている人はほとんどいませんでしたね。結婚している人が1人いたくらいかな。

辰巳 私のところは、女性は29歳くらいの人が最高齢で、みんな独身でしたね。

光畑 そういうなかで自分のキャリアプランを考えて、「この働き方で結婚や出産は無理だよね」と感じました。

 仕事はすごくやりがいがあるけれど、子どもを産むまでが私の仕事人生だと割り切って、その間は思いっきり仕事をしようと思っていました。とはいえ、お茶大もパルコも女性が働くのが当たり前というカルチャーをつくってきた場所。だから、「先輩が切り開いてきてくれた道を閉ざさないためにも、仕事を続けるのは義務」という気持ちもあったかな。

辰巳 そうだったんだ。私は、仕事を続けるとか、続けないとかはあんまり考えなかった。それ以前に仕事は「続けて当たり前」だったから。もちろん、結婚もする、子どもも欲しい。どれかのために何かを諦めるという発想は全く無くて……。まあ、後に子育てしながら働く過酷さをイヤというほど体験するわけだけど(笑)、当時はそんなこと想像すらできませんでしたね。この先、転職はするだろうけど、仕事を辞める日が来るというのは全然考えなかった。

光畑 それは私もそうかも。「この形(働き方)ではないな」と思っていただけで、「何か別の答えがあるはず」という確信はありましたね。

29歳で結婚。「35歳になる前に産みたい」とずっと考えていた

「家事塾」主宰の辰巳渚さん
「家事塾」主宰の辰巳渚さん

―― そういった将来設計について、当時、お二人で話したことはありますか?

辰巳 パルコ時代は顔を合わせれば話すけど、結婚観とかそういうことを話したことはなかったよね。

光畑 そうね(笑)。結婚観とか話す雰囲気の会社じゃなかった。だいたいサブカルか仕事か遊びの話。キャリアプランというと、転職の話だけだったよね。

辰巳 転職ありきで、職業設計している感じはあったよね。実は私はもともとお堅い書籍中心の老舗出版社に入りたかったんです。それでパルコを2年で辞めて、憧れの出版社に転職したんです。

光畑 出版は、それくらいで辞める人多かったよね。

辰巳 私は「やったー!」という気分で転職したら、そこの会社が全然合わなくて、3年で辞めちゃうことに。実は、転職したときに恋人に振られていたうえに、結局、仕事も恋もうまくいかなくなっちゃった。会社を辞めたときは、ストレスで体調を崩してしまい、しばらく休養してからフリーとして仕事を始めるようになりました。