共働き世帯にとって保育園や学童の運営など、子育て支援を担う自治体は頼りになる存在であってほしいもの。このたび日経DUALでは、読者に代わって、自治体の首長への突撃インタビューを開始しました。最初は東京23区に取材を依頼し、区長に質問をぶつけます。

今回は都内最大の人口を持つ世田谷区。2014年度の保育待機児童は1109人でワースト1になったものの、実はカウント方法を変えれば600人台。でも「問題の本質はそこには無い」と、保坂展人区長は語ります。教育ジャーナリストとして活躍後、国政に入り、子どものための24時間電話「チャイルドライン」の実現や児童虐待防止法の制定に尽力。2011年に区長に初当選。国会時代は546回を数える国会質問で“国会の質問王”(朝日新聞)という異名を取り、選挙では脱原発を訴えて当選した保坂区長が、2015年春までに1400人の保育定員増を目指すなど、大胆な子育て政策を説明します。

保坂展人(ほさか・のぶと) 区長

1955年、宮城県生まれ。中学在学時の政治活動の自由をめぐり「内申書裁判」の原告として16年間闘う。80年代から教育ジャーナリストとして活躍し、「元気印」の造語などで中高生から大きな支持を得る。96年、衆議院議員初当選、2000年再選。2005年衆議院選挙・東京比例区で当選、3期を務める。2011年4月の世田谷区長選で当選し、現在に至る。著書に『88万人のコミュニティデザイン 希望の地図の描き方』がある。

「3・11」を経て、区長選への出馬を決意

保坂展人・世田谷区長
保坂展人・世田谷区長

DUAL編集部 区長に就任したのは2011年、東日本大震災直後の4月でした。

保坂区長(以下、敬称略) それまで、落選していた時期を合わせると国会議員を15年くらい務めていたわけですが、東日本大震災を経験し、その後の原発事故などを受けて、首長によって住民の運命が変わる事態を目の当たりにしました。それが区長選挙に出馬した直接のきっかけです。

―― 区長選挙への立候補を表明した記者会見が2011年4月6日、投票日が24日ですから、20日足らずの選挙戦だったのですね。地元の国会議員(世田谷区の東京6区)としての知名度も実績もあったのだと思いますが、もともと地元が世田谷なのですか?

保坂 生まれは宮城県ですが、引っ越して通っていた幼稚園が世田谷区にありました。20歳以降はずっと世田谷を中心に活動しています。

教育ジャーナリストとして中高生と向き合った1980~90年代

―― 高校に提出する内申書に政治活動について記載され、16歳で裁判の原告として闘った経験をお持ちです。

保坂 あの裁判は判例になり、大学の法学部の教科書にも載っています。司法試験にも何回か出題されています。1980年前後に「校内暴力」が問題となった当時、枠を外れた子ども達はいわゆる「つっぱり」と呼ばれていましたが、彼らとはまた違った立場で、枠の外にはじき出されてしまった、あるいは自分から飛び出した子ども達がいたんです。でもそういう子どもの目線で書いた本や記事はありませんでした。

―― それをきっかけに教育ジャーナリストになられたのですね。

保坂 ティーン向けの芸能雑誌『明星』から依頼があって、「元気印レポート」というコラムを始めたのが最初です。芸能情報ばかりの雑誌の中で、突然、体罰やいじめの話を書いたところ、読者アンケートでいきなり上位に入りました。少し遅れて、『週刊セブンティーン』にも書くようになって。80年代は、ほぼ毎日子ども達と話してばかりいました。

―― 何歳くらいの子ども達ですか?

保坂 主に中高生です。その後『小学五年生』でも連載を始めたので、小学校高学年にも広がりました。メールも無い時代でしたから、子ども達とは最初は手紙のやり取りから始めました。記事を読んでくれた子ども達からの手紙が全国から届いたんです。

 その中の一人が、女子高生時代の西原理恵子さん(漫画家)だったりしてね。彼女のことを取材して誌面で紹介したこともあります。そういった子ども達の姿は、大人の社会からは見えてこないんです。今でも、こういった手法で書いているジャーナリストはあまりいないのではないでしょうか。80年代には、子ども達が自由に集まれるフリースペースも代々木につくりました。そこで子ども達とした話が仕事に結びつくこともよくあったんですよ。

妻の地元の産院で出産に立ち会い、1週間寝泊まり

―― お子さんが生まれたはそのころですね。

保坂 仕事柄、自分の都合で動くことができたので、出産予定日の2週間前から仕事を入れずにいました。息子が生まれたのはまさに予定日。妻の地元である千葉県の産院での出産だったのですが、泊まり込んだ夫は私が初めてだったそうです。しかも1週間の泊まり込み。初めての便、緑便の処理も私がしましたよ。妻は専業主婦でしたが、退院後も週に何回と決めて、妻と交代して子どもの面倒を見て、妻にはその間息抜きをしてもらっていました。