「3・11」を経て、区長選への出馬を決意
DUAL編集部 区長に就任したのは2011年、東日本大震災直後の4月でした。
保坂区長(以下、敬称略) それまで、落選していた時期を合わせると国会議員を15年くらい務めていたわけですが、東日本大震災を経験し、その後の原発事故などを受けて、首長によって住民の運命が変わる事態を目の当たりにしました。それが区長選挙に出馬した直接のきっかけです。
―― 区長選挙への立候補を表明した記者会見が2011年4月6日、投票日が24日ですから、20日足らずの選挙戦だったのですね。地元の国会議員(世田谷区の東京6区)としての知名度も実績もあったのだと思いますが、もともと地元が世田谷なのですか?
保坂 生まれは宮城県ですが、引っ越して通っていた幼稚園が世田谷区にありました。20歳以降はずっと世田谷を中心に活動しています。
教育ジャーナリストとして中高生と向き合った1980~90年代
―― 高校に提出する内申書に政治活動について記載され、16歳で裁判の原告として闘った経験をお持ちです。
保坂 あの裁判は判例になり、大学の法学部の教科書にも載っています。司法試験にも何回か出題されています。1980年前後に「校内暴力」が問題となった当時、枠を外れた子ども達はいわゆる「つっぱり」と呼ばれていましたが、彼らとはまた違った立場で、枠の外にはじき出されてしまった、あるいは自分から飛び出した子ども達がいたんです。でもそういう子どもの目線で書いた本や記事はありませんでした。
―― それをきっかけに教育ジャーナリストになられたのですね。
保坂 ティーン向けの芸能雑誌『明星』から依頼があって、「元気印レポート」というコラムを始めたのが最初です。芸能情報ばかりの雑誌の中で、突然、体罰やいじめの話を書いたところ、読者アンケートでいきなり上位に入りました。少し遅れて、『週刊セブンティーン』にも書くようになって。80年代は、ほぼ毎日子ども達と話してばかりいました。
―― 何歳くらいの子ども達ですか?
保坂 主に中高生です。その後『小学五年生』でも連載を始めたので、小学校高学年にも広がりました。メールも無い時代でしたから、子ども達とは最初は手紙のやり取りから始めました。記事を読んでくれた子ども達からの手紙が全国から届いたんです。
その中の一人が、女子高生時代の西原理恵子さん(漫画家)だったりしてね。彼女のことを取材して誌面で紹介したこともあります。そういった子ども達の姿は、大人の社会からは見えてこないんです。今でも、こういった手法で書いているジャーナリストはあまりいないのではないでしょうか。80年代には、子ども達が自由に集まれるフリースペースも代々木につくりました。そこで子ども達とした話が仕事に結びつくこともよくあったんですよ。
妻の地元の産院で出産に立ち会い、1週間寝泊まり
―― お子さんが生まれたはそのころですね。
保坂 仕事柄、自分の都合で動くことができたので、出産予定日の2週間前から仕事を入れずにいました。息子が生まれたのはまさに予定日。妻の地元である千葉県の産院での出産だったのですが、泊まり込んだ夫は私が初めてだったそうです。しかも1週間の泊まり込み。初めての便、緑便の処理も私がしましたよ。妻は専業主婦でしたが、退院後も週に何回と決めて、妻と交代して子どもの面倒を見て、妻にはその間息抜きをしてもらっていました。