今や、5大陸にまたがる世界的なレストラン・グループのオーナーシェフとして活躍しているNOBUこと、松久信幸さん。14歳のとき、お兄さんに初めて連れて行かれたすし店で料理の世界に魅了され、すし職人になることを決意したのが始まりでした。東京の店で修業した後、海外へ渡り、ペルー、アルゼンチン、アメリカと拠点を変えながら、和食の技術を基本に南米や欧米のエッセンスを取り入れた独自のスタイルを確立。アメリカのビバリーヒルズに出店した「Matsuhisa」でハリウッドスター達を魅了し、1994年に「NOBU New York City」を開店して以来、俳優ロバート・デ・ニーロさんはビジネスパートナーに。

 世界を飛び回る松久さんと、愛娘の純子さんに、日経DUAL羽生編集長がインタビューしました。

――世界に35店舗、年間200万人以上が来店する世界的な人気店のオーナーシェフでいらっしゃいますが、若いときから海外に渡り、行く先々でチャレンジや苦労をされてきたとお聞きしました。

松久信幸さん(以下、松久): そうですね。自分としては「このような生き方をしよう」と思って進んできたわけではないんですが、子育ても仕事も、何か苦しいことがあっても逃げるわけにはいかないという思いでやってきました。

 数々の失敗もしたけど、失敗から学んだこともたくさんある。もし、失敗をして逃げていたら、今の僕は絶対になかったと思います。現実から逃げなかったことで、今の僕とNOBUがあると思っているんです。

NOBUこと松久信幸さんと、娘の純子さん。
NOBUこと松久信幸さんと、娘の純子さん。

 当初は苦労続きだった。10代から東京のすし店で修業を重ね、お客さんからの誘いで、結婚したての妻と二人でペルーに渡って自らの店を開く。順調に見えたのもつかの間、仕事のパートナーとけんか別れをしてしまい、妻と1歳の長女(純子さん)を連れてアルゼンチンへ渡る。現地のすし店で働いているときに、妻が次女を妊娠していることが判明。このまま続けていくのは厳しいと考え、日本への帰国を決めた。

松久: 南米から日本に逃げるように帰ってきて、お金も無く、友達もおらず、唯一頼れる知り合いのところに寝泊まりさせてもらっていました。子どもは知人の家でも「ミルクが欲しい!」と無邪気に言うんです。当時の日本ではミルクはかなり高く、十分なお金が無いなかで肩身が狭い思いをして、非常に心苦しかったですね。