知り合いの紹介で、アラスカからロサンゼルスに一家で渡り、オープンしたての日本料理店で働くようになる。ペルー時代に身に付けたスペイン語が役に立ち、スペイン語を話す常連客が増えていく。そして、自身の名前が付いた日本料理店「Matsuhisa」をビバリーヒルズにオープン。ペルーやアルゼンチンでの経験を生かして南米のエッセンスを和食に盛り込んだオリジナル料理が人気を呼び、「NOBU」の代表メニューの一つ、「ソフトシェルクラブロール」や「ギンダラの西京焼き」なども生まれた。

――ロサンゼルスでは、奥様も働いていらっしゃったそうですね。

子ども時代は「鍵っ子」だった純子さんも、今では4歳の娘を持つワーキングママ。
子ども時代は「鍵っ子」だった純子さんも、今では4歳の娘を持つワーキングママ。

松久: 「Matsuhisa」では、最初の2年間は利益が全く出なかったんです。女房が数年間パートに出てくれ、それがずいぶん家計の支えになりました。

純子: 母は当時、空港のカウンターで働いていて、朝早く出かけていくので、私は学校へバスで行ったり、友達のお母さんの車で送り迎えをしてもらったりしていました。基本は、“鍵っ子”。母が当時のことを言うんです。「あなた達とお菓子スタンドに行くと、無邪気に『お菓子を食べたい、食べたい』と言う。でもうちは貧乏で、娘2人に1枚ずつクッキーを買ってあげるお金が無いから、1つ買って半分に割ってあげていたのよ」って。

――あぁ、それは子どもを持つ母の身としてはとても切ない場面ですね…。聞いているだけで涙が出ます。

松久: 当時はとにかく貧乏でした。店を始めたとき、女房は「これでやっと、おすしがたくさん食べられる」と思ったそうです。でも、ありがたいことに繁盛して店内はいっぱいだったので、すしを食べたいときは、女房はよその店に行ってテイクアウトしていたんですけど(笑)。

 当時僕は朝5時に起きて魚や野菜の買いだしに行き、午前中に仕込みをしてランチをオープン。その後、ディナーまで、卵を焼いたり煮物を作ったり。そして17時45分からディナーがオープンして、夜中の1~2時まで働く日々でした。

 その後、お店がニューヨークやロンドンなどにもできて僕がロサンゼルスを離れるようになると、その間は、女房がオーナーとして昼も夜もお店に行ってくれます。今は女房のほうが、僕の原点である「Matsuhisa」にいる時間が長いですね。以前は僕が店にいないと、スタッフやお客さんから「NOBUはどこへ行った?」と言われていたそうですが、今は僕が店に行くと「今日、女房はどこに行った?」と言われます(笑)。

父からの教えは「やり続ければ、必ずかなう」

――純子さんは共働きの家庭で育ち、しかも海外のあちこちで子ども時代を過ごされてきました。娘にとって、お父さんはどんな人でしたか?

純子: 「何かをずっとやり続ければ、必ずかなう」ということをいつも言われて育ってきました。また「人との約束を守ること」に関しては、特に厳しかったですね。高校生のとき、パーティーなどがあって帰りが夜中の1時になると伝えると、NOとは言わないんです。でも、1時を1分でも過ぎると、ものすごく怒られました。「約束が違う!」と。

 それは今でも同じなので、時間には特に気を付けています。予定よりものすごく早く着くようにしていますね。