今の仕事にもやりがいを感じているけれど、でも本当にやりたい仕事は別にある──そんなとき、あなたならどうします? 社会人になってから、勉強をし直して、新しい世界にチャレンジした人達に話を聞く連載第2回に登場していただくのは、40代になってから、仕事を辞めて再勉強。改めて自分のやりたい仕事を目指した女性です。※第1回「専業主婦時代に再勉強。念願の事務職正社員へ」もお読みください。

松井香織さん(仮名)
1970年大阪府生まれ。大学卒業後、スポーツメーカーで主にウエアの開発などを担当し9年間勤務。その後、アパレルメーカーで4年、アパレル企画会社で3年働いたものの退職。40歳になり、今後のキャリアを模索するため関西学院大学ハッピーキャリアプログラムを受講。長年、夢見ていた日常に着る服を作りたいという原点に戻って就職活動した結果、大手アパレルメーカーに採用。現在はレディースの商品企画を担当。

松井さんの歩み
●大学卒業後、スポーツメーカーに就職。スポーツウエアの開発などを担当
●31歳で退職。英会話スクールに通う
●33歳、アパレルメーカーに就職。製造部門の生産管理を担当
●37歳、アパレルメーカーを退職
●38歳、アパレル企画会社へ就職
●40歳、アパレル企画会社を退職
●40歳、関西学院大学ハッピーキャリアプログラムを受講
●41歳、大手アパレルメーカーに就職

2回転職しても目指していた仕事ができないもどかしさ

――アパレル関係のキャリアが長いのですね。

 大学を出た後、就職した会社で、スポーツウエアの開発に携わってきました。結婚したのは26歳のときです。当時は結婚しても仕事を続ける女性はまだ珍しかったですね。上司や同僚にも恵まれて、仕事は楽しく、やりがいもありました。

 でも、ずっと「日常に着る服を作りたい」という夢がありまして、30代になったときに、やっぱり希望をかなえたいなと思って、会社を辞めました。

――転職先を決めずに退職したんですね。

 はい。毎日とても忙しかったし、出張も多かったので、体力的に疲れてしまったというのもあって。少し休憩しようという気持ちもあって、英会話スクールに通いながらのんびりしていました。子どもがいないので、家事もあまり大変ではなかったですし。

――希望をかなえられる仕事を見つけるのは大変でしたか。

 本当はアパレルの企画をやりたかったのですが、直結するような経験が無かったので難しかったですね。あるアパレルメーカーで「製造部門の生産管理から始めてみては?」と打診されて、入社しました。

 でも、その会社はイタリアの生地を使うとか、ちょっと高級な商品を扱っていましたから、やはり「日常に着る服」とは違っていて。生産管理から企画に異動できる可能性も無かったので、4年で辞めました。

 退職後、「専業主婦になるのもいいかな」と思って、しばらくやってみましたけど、とても持ちませんでした。やっぱり社会とのつながりが無くなると、刺激が無いような気がして。

 そこで、アパレル業界で転職するなら英語力が武器になる、と考えてハローワークの教育プログラムで半年間、通訳の学校に通いました。毎日6時間、みっちり勉強しました。おかげで700点くらいだったTOEICの点数が半年で900点にまで跳ね上がりました。

――英語力を武器に再び転職活動をされたんですね。

 海外のアパレルメーカーとの取引とか、自分が作った服を海外に売り込むとかもやってみたいなぁという思いがあったので、そんなことができる会社を探したところ、小さなアパレル企画会社に出合い、入社しました。

 自分が企画した服のパターンや仕様書を作って、タイや中国の工場に製造を依頼する仕事です。扱っているのは日常に着る服ですし、英語を使う場面も多くて、かなりやりたいことに近いイメージではあったんです。

 でも、「品質は二の次。はやっているものをたくさん作って売ることが大事」というような会社の方針についていけなくて。消費者を欺いている気がして、それがつらくて3年で退職することにしたんです。

 このときは、かなり落ち込みましたね。「自分なりにちゃんと考えて、選んで入った会社でやりたいことができたはずなのに、どうしてこうなってしまったんやろ」と。

 しかも、会社を退職したときには40歳になっていました。2度の転職時はまだ30代でしたけど、それでも結構難しかったんですよ。だから転職なんか無理に決まってる、もう私のやりたいことはできへんのかな、自分の思いとは違っていても辞めずに続けるべきやったのかな、と悶々としていました。