必然的に、朝の家事は宮田さんの役割となった。朝早く起きてお弁当を作り、子どもたちを起こして着替えさせ、朝ごはんを食べさせる。そして幼稚園まで送り、それから出社だ。お迎えと夕食の準備は、妻がどうにか請け負ったが、それで妻の体力は使い果たされてしまうため、食後の洗い物や洗濯、掃除は宮田さんが帰宅後に行った。もちろん、土日は「専業主夫」状態だ。

掃除洗濯、料理や子どもの世話よりもやっかいだったのは…

 家事は嫌いではなかった、大学進学を気に一人暮らしを始め、26歳で結婚するまでは自炊をしていたので、食事の用意も、洗濯や掃除も、子どもの世話も、何とかこなせた。

 一番やっかいだったのは、「自分の感情」だった。

 「妻の症状は、見かけでは分からないんです。顔色も悪くはないし、普通に座っていたら病気には見えない。でも、すぐに疲れてしまうし、全身倦怠感も激しいらしい……頭では分かっているんですが…朝、私が時間に追われて血相を変えてご飯を作り、まだ小さな子ども2人の面倒に追われている傍で、ゴロンと横になっている妻の姿を見ると、どうしてもイラっとしてしまうことがあって…」

 妻も、自分の症状を理解してもらえないジレンマでストレスが溜まっていた。発症して数年は、宮田さんのイライラを察知し、突然感情を爆発させることも多かったという。「互いを思いやり、助け合わなくてはならないのに…ぶつかってばかりだった」と振り返る。

 救いは、2人の子どもたちが聞きわけのよい「いい子」だったこと。幼いながらも、両親の現状を理解したのか、わがままも言わないし、手伝いも良くしてくれたという。2人の笑顔に、何度となく助けられた。

 妻の症状は、新しい薬の効果もあり、しばらくは小康状態を保った。もちろん、働くのは無理だし、朝の家事は宮田さんに任せきりではあるが、昼までには起き出すことができるようになった。子どもたちが小学校に上がると、授業参観などの学校行事には何とか顔を出せるようになっていたという。

 しかし、上の子が小学5年生になったある日、急に症状が悪化した。全身に痛みが走り、体を起こすこともままならなくなった。