東京の学童保育は3つの流れがある

 東京に限定しますと、学童保育の発祥は大体三つの流れがありました。葛飾区の青戸団地の人たちが、保育園が終わった自分たちの子どものために共同保育をつくって、都に補助金をもらえるように動いた。これが東京の学童保育の原型になっています。

 もう一つ別の流れは、渋谷区の保育園の園長さん方が始めました。自分たちの園で手厚く面倒を見ていたのに、小学校にあがった卒園生が、渋谷の街中でぶらぶらしている。万引きをしたり、逆に被害にあったりするのを見過ごせないと。

 もう一つは、北区の労働者生活協同組合による『豊島子どもクラブ』です。東京の学童保育で一番早く始まったのはこのクラブで1958年です。地域の子ども会の組織活動として、生活協同組合の会員であるお母さんたちが作った学童保育です。

 こうした三つの流れがあって、いろいろ連携していった。そのプロセスでは、すべての子どもを見るのか、働いている人の子どもを優先するのかなど今の『放課後子どもプラン』と同じような議論もありました。そういう議論は、いまだにごちゃごちゃしている問題ですが、実は初期の段階からありました。これが昭和30年代半ば頃の話です。

――では、そうした問題というのはいまだに変わらずあるわけですね。

 はい。先ほど、1966年当時の文部省が一度学童保育に近い施策に取組み、手を引いたと述べました。当時は“4省協力”といって、当時の厚生省、労働省、文部省、総務省で協力するという申し合わせがあったくらいに広くまたがった問題ですよね。教育、保育、労働問題にかかわってきますし、いわゆる社会問題でもある。いろんな分野にまたがる問題なので、解決が難しいという面もあると思います。

今回はここまで。最終回では学童の今、そして未来について教えていただきます。野中さんによると、学童は今年から来年にかけて、変化の境目を迎えているそうです。

(続く)

(ライター/越智理奈 写真/天満真也)