この事業のきっかけとしては、国の制度化を求める国会請願、地方議会、全国市議会市長会の意見書などがたくさん出されたことを受けて、1975年の国会で、当時の厚生大臣が『児童福祉法に学童保育が明記されていないのは法制上の欠陥』という発言をして、当時で四億七百万円ほどでしたか、予算を計上しました。これがゼロ査定になり、復活折衝で一億円ほどの都市児童健全育成事業ができました。あれが一回目の制度的なチャンスでしたね。ちょうど『家庭基盤の充実』政策ということで、政府が福祉政策を見直し、ボランティア活動を中心にした地域福祉の発想に転換した時期でした。

 90年代に入ると少子化問題がクローズアップされます。その対策として、いわゆる“M字カーブ(子育て世代の女性が働けない問題)”を改善しようと、国が『エンゼルプラン』(働く女性のための保育拡充)と銘打って、待機児ゼロ作戦が始まりました。学童保育が児童福祉法に『放課後児童健全育成事業(放課後児童クラブ)』として法制化されたのは1997年ですね。

現在30代半ばのママが小学生の頃、学童保育が増加する波が来ていた

――私(越智)は今年35歳ですが、小学生のころは、周りの友だちも母親がみんな主婦ばかりで、学童保育に通っている友だちはいませんでした。

 越智さんが小学生だった1980年代後半から1990年頃は、ちょうど学童保育が増え始めたころですね。1980年代当初は、フルタイムで働いていない人はなかなか学童保育を使えないという時代でした。その後、労働市場が変わってきて、働き方が多様になってきたのが90年代からでした。

――タイミング的には雇用機会均等法が実施された頃ですね。

 ちょうど変わり目の時期でしたね。