でも、公教育とサービス業は根本的に違います。
マッサージというサービスを受けて、利益を得るのは消費者本人であって他の誰でもありません。しかし、教育の場合、サービスによって利益を受け取るのは実は子ども本人ではありません。もちろん保護者でもありません。子どもがいずれ大人になって活躍する社会全体が利益を得るのです。子どもたち一人ひとりがそれぞれの才能を伸ばし、社会に羽ばたいていくことで、社会全体がパワーアップし、豊かになっていくのです。そのために行われるのが、社会による教育、つまり学校教育です。
教育とは、一見極めて私的に見えて、実はこの上なく公的な営みなのです。
これは私だけが主張していることではありません。多くの教育実践者、教育学者、教育評論家が口をそろえていることです。
それなのに、現時点での経済合理性にのみ照らし合わせて、むやみに競争原理を取り入れてみたり、人事考課制度を取り入れてみたりすることは、学校を舞台に「会社ごっこ」をしているようにしか私には見えません。
そして、その「会社ごっこ」の副産物として、保護者や児童の「お客様」意識の昂揚があり、それが学校現場を歪めているように思えてなりません。
今、この国に教育危機というものが存在するのであれば、それは、子どもたちの学力低下とか教師の力量不足とかいう次元のことではなくて、そもそも教育とはなんなのかが正しく共有されていないことではないかと私は思います。
「会社ごっこ」やそれにともなう保護者のお客様意識など、今、教育の現場には、教師に多大なストレスをかける要因がたくさんあります。
ストレスを感じ、自尊感情が著しく傷つけられてしまった場合、人には大きく分けて2通りの反応があります。一つは内にこもってしまう場合。心を病むということ。もう一つは外に向かう場合。他者に対する攻撃性が高まるのです。これがオバタリアン教師だといえます。
精神疾患で休職する教師とオバタリアン化してしまう教師はコインの裏表のような関係です。精神疾患で休職している教員数は、この30年間で8倍になっています。特に50代女性に多いようです。ということは、オバタリアン教師が同じくらい増えていても不思議ではないわけです。
仮に、オバタリアン教師を一掃しても、教育現場が今のままでは、オバタリアン教師やそれに代わる新しいタイプの問題教師が再生産されるだけでしょう。
大切なのは、オバタリアン教師を学校から排除することではなくて、教師たちの心の隙間をつくらないようにすることです。教師たちの心を自尊感情、やる気、やりがいで満たすことです。そのために必要なのは、新しい法律や制度をつくることでも、研修施設のような箱物をつくることでもありません。
社会のみんなからの、目に見えない小さな思いやり、気遣い、働きかけの積み重ねであるはずです。(次回へ続く)