ある教頭は、「極端な話、みんなボンクラ教師なら、誰も文句は言わないんです。隣のクラスは評判のいいベテラン教師なのに、なぜうちのクラスは新米の教師なんだ? というところに、保護者は不公平感を感じることがあるようです」と指摘していました。それは誠に的を射た指摘だと私は思いました。

「みんな同じ条件で学校に通っているのに、担任の力量に差があるなんて不平等じゃないか」という気持ちが一部の保護者にはたしかにあるようなのです。

 保護者の心に蔓延する「お客様」意識も、担任を品定めするように見て、気に食わない場合一方的に要求を強めるような風土の醸成に一役も二役も買っていると思います。

 サービスを受ける側の消費者的な立場から考えれば、サービス提供者に落ち度があれば、それだけビジネスという対価交換行為において、有利に立つことができます。「同じ料金でもよそではもっとサービスしてくれた」と言えば、さらにいい条件を引き出すことができるかもしれません。500円で栗を買うような一般的な経済活動においてはそれも正当な交渉です。

 でも、教育の場において消費者の側がそれをしはじめると、どうなるか。サービス提供者も見えないところで手を抜くということをせざるを得なくなると思いませんか。山盛りにもられた栗の下を覗くと、実はかさ上げされていたなんてことになりかねません。

 実際は、そんなことにはなりません。結局教師たちの負荷だけが増えるのです。教師たちは、給料に不満はあったにしても、児童に対するときは損得勘定抜きで仕事をしていますから。そうでなければとてもできない仕事です。損得勘定を考えているのであれば、とっくにもっと割のいい仕事に転職しているはずです。

 教師たちが損得勘定抜きで子どもたちに接してくれているのに、保護者は「お客様」意識を振りかざすというのではアンフェアと言わざるを得ません。教師たちの思いを想像するだけでこちらまでつらくなります。

 それどころか、日本の財政悪化を受け、2008年度から2011年度にかけて教員の給与は段階的に下げられており、しかも、財政制度等審議会においては教員給与を年額10万円引き下げて、一般の公務員と同じ水準にすべきだという話まで飛び出しています。

 一般企業では、どんなに忙しくても、利益が上がらなければ給与が下がるというのは当たり前です。しかし、次世代を教育する教師が、そのときの国の財政状況によって給与をカットされるというのはいかがなものでしょうか。なんでも一般企業の理屈を導入すればいいというものではないでしょう。

 繰り返します。教師の負担が増し、モチベーションが下がれば、しわよせはすべて子どもたちにいきます。社会全体が、教師を媒介して、子どもたちにしわよせをもたらしているのです。

「会社ごっこ」が学校をダメにする

 たとえばマッサージ屋さんに行って、1時間分5000円の料金を払ったとします。それで1時間のマッサージを受ける権利が発生します。どうせ同じ5000円を払うなら、できるだけ上手な人に施術してもらったほうがいい。「担任を変えろ!」だの無茶を言う人の心理はそれに近いのだと思います。