最初は、1歳8カ月の息子の、保育園の連絡帳がきっかけだった。「いつも踏切の音を聞きつけて、手を挙げてみんなに教えてくれます。通過する電車をじぃっと見ています」。電車の絵本を与えると、何度も何度もリクエストした。

 ある日、外食先で走り回りたがる息子を大人しくさせるために、スマホで踏切の動画を見せた。食い入るように「踏切を通過する電車の映像」を眺め、「おっ!おっ!」と笑顔で指さした。喜ぶ顔見たさと、「静かにしていてくれると助かる」という親の都合が、後押しをする。

 共働きの夜は慌ただしい。お腹が空いて機嫌が悪い息子に、おやつを与えず何とか食事をさせたい。つい、間を持たせるために、iPadで踏切の映像を差し出してしまった。

 それから、私が帰宅すると駆け寄ってくるようになった。愛情表現なんかじゃない。私は、「スマホかタブレットで電車映像を見せてくれる人」に成り下がってしまったのだ。「ご飯が先よ」「あとで少しだけね」「今はダメよ」。まだ、言葉の通じる年齢ではない。はっきりと言葉の通じる年齢ではない。根負けして見せると、満面の笑顔で電車を眺める。食事ができたので取りあげると、この世の終わりのような声で泣く。私は「僕の楽しみを邪魔する悪者」でしかない。見せなきゃよかった。最初の数回を、うらめしく思い返す。

「夕方の三十分」を救ってくれるもの

我が家では「ちいさいオッさん」と呼ばれている息子の、至福タイム。彼の大好きな「阪急電車の踏切画像」に簡単にアクセスできてしまう時代、便利だけれど悩ましい
我が家では「ちいさいオッさん」と呼ばれている息子の、至福タイム。彼の大好きな「阪急電車の踏切画像」に簡単にアクセスできてしまう時代、便利だけれど悩ましい

 思い返せば、今6歳の娘はテレビっ子だ。2歳前後のころ、テレビを消すと泣かれたものだ。当時は自宅仕事と家事をしながら、1人で彼女を見ていた。締切りが迫ると、テレビに頼ってしまう。ツールが違うだけで、同じ過程をたどっている。

 食事に集中させようとタブレットを片付けると、テーブルの上の味噌汁をなぎ払って号泣しはじめた。穏やかに対応しようと思っても、疲れている時はダメだ。思わず、手が出そうになる。ぐっとこらえる代わりに、怒鳴ってしまう。

 「オカアチャンは電車じゃない!食べなさい!」

……支離滅裂だ。

 こんな時、黒田三郎の『夕方の三十分』という詩が頭を巡る。母親が入院して、小さな娘と2人。夕食の準備をする父親を、娘のユリが困らせる場面だ。

「ホンヨンデェ オトーチャマ」

「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」

「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」

卵焼きをかえそうと

一心不乱のところへ

あわててユリが駆けこんでくる

「オシッコデルノー オトーチャマ」

だんだん僕は不機嫌になってくる

 この時、テレビやスマホやゲームがあれば、「僕」はきっとユリに差し出すだろう。「オトーチャマ」は、かんしゃくを起こしたユリのお尻を叩いて泣かせてしまう。

他人事とは思えない。