先ほど紹介した詩、『夕方の三十分』の父子には、食卓で向かい合う「しずかで美しい時間」が訪れる。

おやじは素直にやさしくなる

小さなユリも素直にやさしくなる

食卓に向かい合ってふたりすわる

 我が家ではなかなか一緒に食事が取れない。「夕方の三十分」の代わりに「夜の三十分」をできるだけ取るようにしている。夫は息子に、私は娘に絵本の読み聞かせをする。寝る前の儀式があると、子どもは寝つきやすい。「2冊読んで!」と言われ、いいよと答えたくせに、2冊目の『カラスのおかしやさん』でどこを読んでいるかわからなくなる。

 娘が私のメガネを外して「オカアチャン、もういいよ」と言ってくれる。子どもってすごいな、勝手に成長している。疲れていて、本当にごめん。隣には、『わくわく でんしゃしゅっぱつ』の途中でいびきをかき出した夫と、トロトロと眠りに落ちていく息子がいる。

――それぞれの家庭に、それぞれの形で「しずかで美しい時間」があればいい。

 その穏やかな時間すら持てない家庭も、日本中にある。公立小学校の役割は、確実に大きくなっている。教室で流れる「しずかで美しい時間」のために。校長としてやるべき仕事は、まだまだある。

[本記事は日経DUAL編集部が2013年12月13日付日本経済新聞電子版に寄稿した記事を再構成しました]