彼らが幸せな人生を送るために、必要な思考力や表現力を育てる。その点で、公立小学校の授業は工夫されていると思う。子どもたちの発言を促し、お互いの発言から思考を広げていく。また、お互いの「いいところ」を認め合う場にもなっている。小学校が育てているこの力は、すぐに結果が見えるものではない。だが、生涯にわたって基盤になる大切なものだ。

 特に日本の小学校は、学級活動や行事の中で子どもの能力を引き出している。アメリカの小学校では掃除を児童にさせずに、業者を入れている。それでは、公共意識や衛生観念が育ちにくい。日本では給食や掃除も、重要な教育だ。

できない、わからない苦痛に気づいてほしい

 一方、結果が見えやすい「テストを突破する能力」としての「学力」はどうだろう。

 算数の教科書・計算ドリル・副教材による問題演習+担任が配るプリントを見ていると、トレーニング量は確保されている。きっちりやれば、力がつくだけの教材になっている。課題があるとすれば、宿題に取り組む姿勢や理解不足にある。雑にやった「こなす」だけの宿題には意味がない。

 さらに、前提として「わかる授業」は必須だ。塾はある程度、成績や志望校によってクラス分けをしているため、指導しやすかった。そもそも、授業を受ける以前の課題を抱える子どももいる。それでも、子どもたちを引き込み、理解させ、できた! と感じさせる授業をしなければならない。難題だ。

 教師としての技術はさまざまあると思うが、私が最も大事にしているのは「子どもの心理に気づく力」だ。

私の小学校1・2年の担任だった宝塚小学校の伊藤先生は、毎日「1枚文集」を出してくれる先生だった。2年終了時の文集を大事に持っている。お陰で今も文章を書くのは大好きだ
私の小学校1・2年の担任だった宝塚小学校の伊藤先生は、毎日「1枚文集」を出してくれる先生だった。2年終了時の文集を大事に持っている。お陰で今も文章を書くのは大好きだ

 塾の校長を任されていた時、講師採用や育成は自校で担当する仕組みだった。本部から来た履歴書を見て連絡を取り、面接をして授業を見てもらい、課題を与えて模擬授業を数度行う。阪大や京大の学生は、講師としては不適格なことが多かった。なぜなら、彼らは「わからない子どもの気持ちがわからない」からだ。言葉のレベルを小学生に合わせられない。「わかりましたか?」の一言で、次に行ってしまう。そんな質問で、子どもの理解度は測れない。

 説明を聞いている時の表情、問題演習で止まっている手、テストでの間違いから気づいてほしい。なかなか、人は自分ができることについて「できない人」の気持ちはわからないものだ。

 私は小3の時、親の都合で2回転校した。おとなしかったこともあって、特に教師に気に掛けてもらった記憶はない。算数はカリキュラムのズレもあって、分数がわからないまま座っていた。宿題は答えを写し、その場をしのいでいた。授業はちっとも頭に入らず、空想の世界に浸っているか、国語の教科書を何度も何度も読み返していた。

 塾でも学校でも「昔の自分」を見かけると、よし、何とかしてやろうと思う。人前で手を挙げて「わかりません」が言えず、悩む子どもはたくさんいる。そっと近寄り、机の横にしゃがみ、問題をスモールステップに砕いて1つずつクリアさせる。「できるやん!」と褒める。

 少人数・習熟度別の指導の先生がベテランなので、その点は安心して任せている。私も、空いている時には積極的に教室に入っている。

「家庭学習」ではなく「自立学習」へ

 宿題の指導は、家庭でフォローしてほしいという本音もある。家でやって来られず、居残りで宿題をしている子がたくさんいる。運動会前で担任が忙しく、校長室や職員室前が即席の自習室となることがある。職員室の番をしながら、宿題をチェックする。