「夏休みの学校は想像以上に忙しかった!」という記事を書くつもりでいたのに、「大阪市の公募校長・公募区長」がらみの報道があると発信にも気を遣う。テレビでは発令式の映像が何度も使われ、真ん中にいる私がイヤでも目に留まる。ああ、明るめのグレーのスーツなんて着るんじゃなかった。翌朝、登校してきた子どもたちに言われる。「校長先生、テレビ出てたやろ!」

 ちょっと困っているのは、著名な教育関係者やコメンテイター達が、他の公募区長や公募校長の現状を調べずに、まとめて簡単に批判してくれることだ。ネットやテレビでの発言には瞬発力が求められ、断言した方が「頭がいい」と思われる風潮がある。影響力のある人は、もう少しだけ立ち止まって発言してもらえると助かる。元情報に当たる、別の角度から考える、深く考える……「熟慮」は評価されない時代なのだろうか。

「考える」ことから逃げない子どもを

 私は進学塾で、公立高校への進学がしんどい子から灘・開成レベルの中高受験までの国語を指導していた。予備校でセンター試験と小論文の授業を持っていたこともある。手ごわい読解や記述問題に当たると、子どもたちは、すぐに「わからへん」と問題を投げ出す。いつも言っていた。「それは『わからへん』のと違う、『考えてへん』って言うんや。頭から煙が出るほど、考えてごらん」

夏休みにボランティアの方に来ていただいて、図書室の整備を実施した。深く自分と対話する力を育てるのに、インターネット全盛時代だからこそ読書は大切だ
夏休みにボランティアの方に来ていただいて、図書室の整備を実施した。深く自分と対話する力を育てるのに、インターネット全盛時代だからこそ読書は大切だ

 試験本番では、問題を時間内にこなすことも教える。しかし、思考に耐える頭を作るには、難しい言葉の意味を一つずつほどき、著者の論理をたどって理解し、設問と向かい合うトレーニングが絶対に必要だ。語彙が少なければ、漢字や辞書引きの訓練を経て言葉の力を養う。小学校の授業は、教師の「発問」によって、子どもの思考力が育つかどうか決まる。自由な発想や発見をどんどん答えさせる工夫は、塾ではじっくり取り組めないところだったので、うらやましく思いながら授業を見ている。

 「思考を止めるな」という姿勢は、校長も教職員も一緒だ。

 「あの子は落ち着きのない子だから」と決めつけてしまえば、そこで話が終わってしまう。なぜ落ち着きがないのか、なぜノートがきちんと取れないのか、なぜ反抗的なのか。

 目先の対処をしながらも、深くいろいろな角度から考える。どこの小学校でもあると思うが、敷津小学校では月に一度、児童の情報を全ての教員で共有する連絡会がある。日々の情報交換に加え、みんなで話し合うことで「何が原因か」「根本的な解決のためにどうすればいいか」を考える。

 保護者との連絡も密だ。この学校に来て、朝に夕にひょいと気軽に家庭訪問に行く先生たちの姿には、感心している。

困った時は「子どものため」が原理原則

 ただ、多忙になってくると、先を読む力や深く考える力が落ちてくる。そして、学校にはさまざまな要求が押し寄せてくる。保護者は自分の子を一番に思う。要求が異なるのは、当然だ。学校は地域のものでもある。伝統を重んじる人もいる。全体としては改革の方向に進んでいる。教職員でも立場によって、重点項目が違う。休み時間は運動場に出て遊び、体力をつけさせるべきか。安全面を考えると、ボール遊びは可にするか不可にするか。修学旅行先を検討するにも、いろんな意見がある。