中川 みどり保育園の前身は、駒沢グラウンドで遊んでいた近所の子どもたちのために、地元の婦人会が立ち上げた「青空保育園」だったの。その保育園が解散したときに、そこで働いていた天谷保子(あまや・やすこ)先生が作ったのがみどり保育園です。

 保育園は作ったけれど、園長の天谷先生以外の保母がいない。だから天谷先生が手書きで求人票を書いて、私が通っていた当時の都立高等保母学院に頼みに来たんです。

 その求人票には「求む、主任保母」って書かれていた。それを見て、私は飛びついたんです。当時の私は自信満々で、就職したらすぐに自分が考える保育をしたいと考えていたから。本当はすぐに保育園の園長になりたかったのだけど、まあ、主任でもいいかと(笑)。

 面接に行ったら、まわりは見渡すかぎりの原っぱで、保育園の建物は仮設の小屋、いわゆるバラックでした。

羽生 保育園がバラック小屋! ためらいませんでしたか?

中川 全然。確かに当時のみどり保育園は、本当に雨露しのぐ屋根があるくらいの仮設小屋だったけど、室内は割と広くて、子どもを遊ばせるのに問題ない広さがあった。施設なんてそれで十分なんですよ。まわりには見渡すかぎりの原っぱがあるから、そこで遊ぶことができて、雨が降ったら入る屋根もある。私にとって理想的な環境でした。

羽生 今、私が住んでいる街にも公園があるのですが、そこも単なる芝生だけなんですよ。作った時の心ある市長が、「子ども向けに作りたい。ただ、下手なプラスチックの遊具を置くな」と主張したそうなんですね。「子どもたちが全力でいつまで走ってもぶつからないようにしろ」って。

中川 それ、いいわね。私が欲しかったのも、広くて、子どもが走り回っても転がっても騒いでも泣いてもびくともしないような、そういう場所。できれば起伏があって、川が流れていて林もある、そんな広いところで保育がしたかった。だから、みどり保育園を初めて見たとき、こういうところでこそ腕の振るいようがあると思ったんです。

羽生 「認可じゃなきゃ嫌だ」なんていうお考えはなかったんですか?

中川 全然思わなかった。自由にできるから「認可なんてないほうがいいわね」って思っていた。

 でも後から園長先生に聞いたら、みどり保育園の面接に来たのは私1人だけだったそうです(笑)。

保育園の子どもに向けて書いた『いやいやえん』

羽生 その保育園で『いやいやえん』や『ぐりとぐら』を書かれたんですね。

中川 そう。東京オリンピックが決まって駒沢グラウンドは整地されることになり、みどり保育園は他の場所に引っ越すのですが、『いやいやえん』はみどり保育園がまだ原っぱにある時代に書きました。