あれ? でも、子どもが育つのは育つべくして育っているんだよなぁ。別に私が教え込まなくても、自然に歩けるようになって、何となく食べさせたら食べられるようになっていっただけで。成長に必要なエネルギー100%のうち、私が関わっているのはほんの1%くらいで、あとの99%は自然のなせる業なんだよな、と。

 そして、モヤモヤが霧のように頭の中に立ち込める。

子どもは育った。で、私は何か生産的な営みをしただろうか……

 あれ? よく考えたら、子育てに追われて、最近何ら「生産的なこと」をしていないような。「ありがとう」って感謝されたり、「おかげさまで」と喜ばれたり、つまり、仕事という価値を生産して、社会に対してアウトプットするということをほとんどしていない。世の中に自分の足跡を残しているという手応えが感じられないんだよなぁ。

 これは、仕事が自由にできない焦燥感から来るのだろうか。
 週に2日くらいは仕事をしていても、そうは言ってもたった2日である。子育て中心の生活にまれに仕事が挟まる程度で、仕事がすべてだった今までとは圧倒的に違う。

 ママ仲間と冒頭のような会話になるのだから、これは私だけじゃなく、働くママ共通の感覚とも言えるだろう。今まで、もう十分過ぎるほど十分にやりたい仕事をしてきた40代の私でもそう思うのだから、仕事がしたい盛りの20代や30代ママが感じる焦りは大変なものだろう。生き生きと仕事をしている同年代の友達を羨ましく感じる気持ちも分かる。

でも、子どもがいなかった頃も似た悩みを抱いていた記憶がある

 いや、待てよ。なんだか昔も、「生産的」とか「生産的じゃない」とか同じようなグチをこぼしていた記憶がよみがえってきた。シチュエーションは全く違うけど。

 腕の中に赤ちゃんではなく、手にグラスを持ち、顔を赤らめながら、滑らかになってきた口で、同期とこんなことをしゃべっていた。

「私達ってさ、毎日毎日仕事ばっかりで、何にも生産的なことしてないよね」(同期)
「そうだね。有機的な生物をこの世に送り出してない」(私)
「いいのかな、こんなんで」(同期)

 ってな感じに、子どものいない自分たちに突っ込みを入れていた。

 当時、テレビ局員として仕事は充実していた。仕事が軌道に乗っていく楽しさは、睡眠不足や休日返上のつらさを吹き飛ばす勢いだった。毎日、何時間という番組を送り出し、視聴者からの反響もいただいて、手応えありまくりの日々を送っていたはずだ。

 なのに、ふとした瞬間、「これでいいのか?」という思いにさいなまれていた。大学時代の友人は結婚して子どもを産み、すてきな家庭を築いている。自分も産めるうちに産んでおかないと後悔することになるのではないか。仕事なんて、替えはいくらでもいるけど、替えのない「ママ」という唯一無二な存在になりたいとは思わないのか、と自問していた。