あの日、わたしは国立競技場で廃人になっていた。木村さんのFKは決まったものの、日本は韓国に敗れ、初のワールドカップ出場はほぼ絶望になってしまったからである。だが、なかば半べそをかきながら横浜の自宅へ向かう途中、総武線から京浜東北線に乗り換える秋葉原の駅で、何やら号外を持った関西弁の集団と遭遇した。

 日本シリーズ帰りの阪神ファンだった。

 大学1年の時、高校時代の友人が自殺したことがあり、「自殺だけは絶対にしないようにしよう」と仲間内で誓い合ったわたしである。よって、今まで自殺をしたことはないし、しようと思ったこともないのだが、それでも、ごくごくわずかながらその考えが脳裏をかすめたことがないわけではなくて、それがこの日、85年10月26日だった。

 (これで俺が自殺したら、サッカーファンが負けて自殺、とかってニュースになるかなあ。それでサッカー熱に火がついたりするかなあ)

 もちろん本気ではない。ないのだが、でも、0.1パーセントぐらいは本気というか、捨て鉢になっている自分がいた。当時、サッカーはとことんマイナーだった。ワールドカップ出場は、そんな状況を打開する最初で最後のチャンスのように思えた。なのに、負けた。終わった。永遠に終わった──。

 …と、どん底に落ち込んでいた時に、懐かしい関西弁が聞こえてきたのである。わたしの中に隠れていた、阪神ファンのスイッチが押された瞬間だった。

早いうちから息子・虎蔵(仮)も「阪神愛」で洗脳したい

 以来四半世紀以上にわたり、わたしは熱狂的かつ偏執的で時に危険な阪神ファンであり続けている。7月には沖縄で阪神の公式戦が行われたのだが、息子・虎蔵(仮)とヨメは問答無用で観戦に連れていかれ、夜はデイリースポーツM記者の手引きで阪神の選手に抱っこ&記念撮影をお願いしまくった。わたしにとって阪神の選手は神に等しい存在であり、早いうちから息子・虎蔵(仮)も洗脳しちまおうという魂胆によるものである。