働くママ&パパに“効く”言葉や発想を人生の大先輩から伝授してもらう「先輩デュアラーの魔法の言葉」シリーズ。メークアップアーティスト歴はなんと60年。メークアップの第一人者として日本の美容をリードしてきた小林照子さんにお話を伺っています。その子ども時代は、まさに波乱万丈。戦争を挟んで、3人の母と2人の父に育てられました。個性も価値観も異なる5人の親と過ごした経験が、小林さんの土台になっていると言います(第1回「人はみんな違っていていい」)。

人はそれぞれに違うということを理解し、自分の中の確固たる「芯」を大事にしながら、成長していきます。養母の死が一つの転機となって、疎開先の山形から東京へ。20歳を迎える春、いよいよ美容の道へと踏み出します。

美容学校を経て、現コーセーに入社。美容指導員として、キャリアをスタートさせた小林さん。ヘトヘトになりながらも一心に仕事に取り組みます。それほどまでに仕事に夢中にさせたものとは何だったのでしょうか。そしてそのころの経験は、今にどうつながっているのでしょうか。全力で駆け抜けた20代を振り返ってもらいました。

“学芸会の花形”がメークアップに目覚める

メークアップアーティスト・小林照子さん
メークアップアーティスト・小林照子さん

羽生祥子日経DUAL編集長 小林さんは20歳のとき、美容学校へ通うために、10年ぶりに東京に戻られましたね。メークアップに興味を持たれたきっかけは何だったのですか?

小林照子さん(以下、敬称略) 養母が亡くなったころ、私は小学校の給仕として働きながら、併設されていた高校の分校で学んでいました。一方で熱心に取り組んでいたのが、演劇サークルの活動。もともと歌が大好きで、東京にいた小学2年のときに、コーラスのソロパートを歌って喝采を博したこともあります。舞台に上がると度胸が据わるタイプだったのでしょうね。疎開時代も学芸会で脚光を浴び、当時の花形照子という名前と掛けて、“学芸会の花形”と呼ばれていました(笑)。

 16~17歳になると、町の有志を集めて演劇サークルを始めたんです。私は東京出身で標準語が話せてプロンプターのような役割もできたので、自然とリーダー的な立場になって。公民館のような集会所で活動を始め、やがて地元の評判になり、あちこちのお祭りの出し物としても呼ばれるようになりました。舞台美術から衣装まで全部自分達で準備していましたが、一番苦労したのがメークアップ。手探りで試行錯誤するうちに、すっかり夢中になってしまった。「演劇のメークアップを仕事にしたい!」と思うようになったのです。